クリスマスプレゼント

妖怪ウオッチ、流行っていますね。

子どもがいない私でも、テーマソングを聴いたりようかい体操(?)を目にすることが多くなりました。ってことは相当流行ってるな。

今日は4歳の姪にあげるクリスマスプレゼントで悩んでいました。まだ何も決まっておらず、、。手作りにしようかと思って裁縫セットを取り出したところ、前買ったのに開けてさえいないガマ口キットを見つけてしまい、自分用の手作りバッグを作ってしまいました。

子どもへのプレゼントと言えば、「影響力の武器」で読んだこの話を思い出します。こんな感じ↓

お父さんはマコト君からCMでよくやってる妖怪メダルが欲しい!とずっと前からせがまれています。お父さんも確かにCMがよく流れていることは知っています。

お父さん;「今日はマコトに妖怪メダルを買ってやるからな。おもちゃ屋さんに行こう」

マコト君;「やったー!!」

おもちゃ屋さんへ行く二人〜

お父さんは妖怪メダル売り場にまっしぐらに向かいます。マコト君も今日は珍しく他のものには目もくれずにお父さんについて行きます。

お父さん;「あれ、メダル売り切れみたいだ。店員さんに聞いてみるか」

マコト君;「え〜!友達に自慢しようと思ってたのに、、、泣」

店員さんも売り切れてしまいました。すみません、と謝るばかりです。

マコト君をその気にさせておもちゃ屋さんに来てしまったお父さん。何か買ってあげないわけにはいきません。

結局、メダルよりも高い、DX妖怪ウオッチを買ってあげることになってしまいました。マコト君はさっきまで半泣きだったのが大喜び。

この後、お父さんは妖怪メダルが入荷されたらマコト君に買ってあげるでしょうか?妖怪ウオッチを買ってあげたのだから、メダルはなしにするでしょうか。

影響力の武器によると、「買ってあげる」が正解です。人間は一貫性を保ちたい生き物であるため、最初の約束を果たすような行動をするんだそうです。

話はこれで終わらない。

これがおもちゃ屋の戦略だったらどうしますか?

たくさんCMを流して、子どもたちの興味をひく。でも買おうと思ったら売り切れ。一旦他のものを買う。親の一貫性を保ちたいという心理を利用して、再来店させ、そのころには在庫豊富にしておく。お店の売上につながる。

人間心理を利用したこんな作戦、実際に行われてたらまんまと騙されるな、私。

今年の漢字

激務から解放されつつあり、

ここに戻ってこれました。

成功するには成功者の真似をせよ、と言われますが、

私が思考回路を真似たいと思っている人がブログを毎日やること、と言っていたのでやらねばならんのですよ。と、来年の自分に期待しよう、、

今年の漢字(私の)は、選択の「選」。

いろいろあって、旦那さんとの別居を選択した。

でも仕事は一緒に続けることを選択した。

住む場所を選択した。

ようやく生命保険に入ることを選択した。

株、FX、英語、社労士の勉強をすることを選択した。

注;一つ目のが、他と比較できないくらいの重さになっていますが、毎日顔を合わしているためそれほど悲壮感漂うものではありません。

選択できるということは選択肢があるということ。

それは=自由であり、幸せなことだと思っているのですが、

自由とは「選ぶつもりで選ばされている手品」(2009年中島みゆき、愛だけを残せ)という言葉にハッとさせられた。個人が選択できる自由とは個々の状況に依存している。やむを得ず選択したものであってもそれを選択したのは本人の自由とされるということ。

私は本当の自由の中で、選択しているのか?そもそも本当の自由ってなんだ?考えていると、永遠のループにはまっていきそうになる。

いまの選択は自由だ、幸せだ、と思っている限り自由である、と言って良いのでしょう。

天から見たらうーんと少ない選択肢から選んでいる、そんな状況にならないように、勉強して世界を広げていきたい。

また、選択に関し、「不恰好経営」(南場智子)にこんな言葉があり、じんわり感動したので載せておこう。

「選択には正しいも誤りもない。選択を正しかったものにする行動があるかどうか。」

格好いい。ノートの1ページ目に書いて、いつでも見直せるようにしておきたい。

積み重ねた後に

久しぶりのブログ回帰。

最近、仕事後は桜庭一樹さんの赤朽葉家の伝説の世界にいたため、ブログもスマートノートもすっかり忘れておりました。読了し、ようやく地上に戻ってこれた。面白かったです。

 

昨日、飲食店を経営しているお客様を訪問しました。その会社の取締役の方から、こういうふうに未来に言えるのって素敵だなと思った話がありましたので、備忘録的にブログに記載しておきます。

 

その取締役のKさんは、自分の長所や得意なこと、短所や苦手を1年に1回、ノートに100個くらい書くのを20年も(!)続けていらっしゃるのだそうです。もう10年前のは恥ずかしすぎて見れないけど、去年のと比較すると同じ短所であっても、ちょっと表現が変わってるのよ。例えば、~ができないとある年に記載していたとして、次の年は、やってみて、こういうところがまだ苦手、というような感じで。書くことをすると、自分が苦手だからやらない・できないままというのが悔しくなってきて、ちょっと進歩してやろう!と思うのだそうです。

 

Kさんの悩みは、この楽しさを従業員に知ってもらうにはどうしたらよいのだろう?というものでした。私は、フィードバックが大事なんではないか?人はみんな自分を知ってもらいたいし、興味を持ってもらいたいものだから、と答えたのですが、本当はもっと言いたいことがありました。その時はうまく表現できなくて、今もできないのですが、「20年間ずっと続けてきたんだよ。それはいつのまにか自分の成長に役に立っていて、人に教えたいくらい最高に楽しいんだよ!」と語れるなんてめっちゃカッコいいじゃないですか。継続ってカッコいいと思った私は、自分もやろうかな、と思ったのでした。普通の人は途中でやめる、でもそれをやめないで、何十年も継続するって相当の違いが出てくるはず。

 

このブログもその想いでやっているはずなのですが・・・。もうすぐ1年の終わり。今年から始めて、定点観測的にこのKさんを真似てみようかなと思っています。

 

 

マイナスをチカラに変える!

こんばんは。

いつも爪のケアをするときは映画を観ながらと決めてます。

今日の爪のお供は、キューティ・ブロンド。キュートでブランド大好きな女の子が、元彼氏に振り向いてもらうためにロースクールに入り、最初はバカにされているのですが、努力によって彼を追い越し、最終的には情熱的な弁護士を目指す、というお話。

コメディー映画に分類されると思いますが、とにかく主人公がかっこいい!超ポジティブ!。

そんな主人公が元彼氏に「私を見くびってるのね」と言った後の努力や目覚ましい成長が、気分をスッキリさせてくれます。

そうだよね。バカにされてる、とか、見くびられた、と思うと、私もものすごく力を発揮できたり頑張れたりすることがある。そういうことを言われるのはイヤだけど、必要悪なんだな。自分にとっては。

ひとを成長させるために、敢えてそういう態度を取るという作戦もあるはずで、でも自分はまだそこまでには至りません。やはり嫌われたくないっていうのが先に立つんですよね。このケチな気持ちから早く脱却するためには、やはり経験を積むことが大事なんだろうか。

ふなっしーのルームシューズ

今週の連休明けから、会社でふなっしーのルームシューズを履いている従業員がいます。

これこれ↓

http://www.hmv.co.jp/artist_Book_000000000120250/item_%E3%81%B5%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%97%E3%83%BC-%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%82%88%E3%81%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BABOOK_6038652

すごく愛敬あるでしょ?

ちなみに彼女は船橋出身。31歳。

ふなっしーのルームシューズを会社で履いちゃうセンスはなかなか理解しがたいものです。気づいたら開口一番、それは会社ではダメ!と言うべきだったのですが、機を逃してしまいました。会社ではダメ、と言わなきゃと思う前に、「ビックリし過ぎた(想定以上すぎて)」・「あれで会社来たのかな」・「私が言わなくてもいいよな」など色々なことを一瞬にして考え、まだ新品ピカピカのふなっしーを前に何も言えなかったのです。

色々な会社から、最近の若い者は的相談を受けますが、中でも多いのが「教わってないからできません」、「言われてないからやりませんでした」を普通に言ってくる。さらに「教え方が悪いから分かりません」と主張されることもある。というものです。ふなっしー事件では「ダメといわれてないからやってもいい」と本人は理解しているということでしょうか。こういうことが起こったらその度、モグラ叩きのようにダメ、ダメと言い続けなければいけないのでしょうか。

よその会社で、そのルームシューズを履いてお出迎えを受けたらどう思うか?

ダメだよと注意する側の気持ちにちょっと思いを馳せてくれたらな、と思ってしまいます。

想像力を働かせて、ほしいです。(切実な願い)

淋しいと言えたらな、、

私の友人で、とても淋しがり屋という人がいる。第一印象は、まったくそんな感じはしない。いや第一印象ではなく、第六印象くらいまで、まったく淋しそうではない。ただ、ちょっと深く付き合うと、そうなのかもな、という片鱗というか、淋しいと頻繁に言っているので淋しいんだな、という感じの人である。

彼が言うには淋しがり屋は親譲りだそうで、父親には、お前たちは俺の淋しさを埋めるために存在しているんだ、と常々言われていたとのことである。

対して私は、人に淋しいなんてあまり言ったことがない。日曜日の夕暮れの頃とか、突然会えると思ってた人に会えなくなったりとか、淋しさを感じる場面は多々あるけど、友人や肉親にそれを訴えてどうにか私が淋しくないようにしてほしい、なんて思ったことはないなと思う。

このメンタリティーの違いってなんなんだろう。

今日の夕方もふと、胸が締め付けられるように淋しさを感じて、こういう時にいつも感じる疑問を今日も思い出したのだった。

淋しい、なんていうと、面倒なやつって思われるんじゃないか、そんな風に感じている気がする。どうしてそう感じるのか?いつでも私は、私とのコミュニケーションによって相手に負担を与えたくない、とどこかで考えているから。それはなぜだろう。いい人でいたいから?違う。自分の奥底を知られるのが怖いから。それはあるかも。他には??

まだまだ答えは出ない。

でも私は淋しいって言える人が羨ましい。

もうちょっと掘り下げて出直します。

鉄剤を飲み始めて

貧血のため、病院に行った話は以前書きましたが、あれから2週間くらい、鉄剤を飲み続けています。

貧血を治すって、長い話を立ちっぱなしで聞いたりするときに倒れたりしなくなるんでしょ?くらいに思っておりました。皆さんもそういうイメージではありませんか?

病院の先生には、あと10日くらい飲むと、違いが分かってくるよ^ ^と言われました。具体的には冷えにくくなる、疲れにくくなるんだそう。

私は先生にそう言われる前から、今までできなかった早朝出勤や自転車出勤が続いていることから、なんか違うぞ?!とは思っていたのですが。

因果ははっきりとは分かりませんが、疲れにくくなったのは確かです。今日のジョギングは明らかにいつもよりハーハーゼイゼイ度が低かったです!

明らかに生活の質が良くなっているので、もっと早く病院に行けば良かったと思うこと頻りです。

今でなくていいかもしれないけど、ちょっとの時間を割いて行動しちゃえば肩の荷が下りることってたくさんありますよね。内科に行くのは私にとってまさにそんな事柄でした。ちゃっちゃっと終わらせて、次に向かう。新しいことが席につけるよう、いつでも席を空けておく、という工夫は必要なんだと思いました。